2026.6.15
生活の禅語 「独坐大雄峰」
「私が今、ここで、1人坐禅をさせていただいている」ということ。
それだけで、とても尊いことです。

禅宗の僧侶にとって、坐禅は日々の習慣のひとつ。ですが、こうした当たり前は、そもそも命と時間的自由があってこそ叶うものです。その裏には、修行に打ち込める環境を作り出してくれている周囲の人々の助けもあります。
「独坐大雄峰」は、日常の当たり前が実は当たり前ではないということに気づかせてくれる禅語です。
この言葉の元になったのは、禅の書物『碧巌録』第26則にある、百丈懐海禅師にまつわるエピソードです。百丈禅師とは、8世紀から9世紀にかけて活躍した名僧です。歴史上初めて『百丈清規』(禅僧が集団で修行する規範)を定めたことが特筆されます。
そんな百丈禅師に対して、一人の僧が問います。
「如何なるか是れ奇特の事(この世で一番素晴らしいことは何でしょうか)」
すると百丈禅師は、「独坐大雄峰」とお答えになりました。
独坐とは、ただ1人で坐禅に集中していること。大雄峰とは高い山の意味もありますが、ここでは「今いるところ」と捉えるとわかりやすいでしょう。「私が今、ここで、1人坐禅をさせていただいている」という一見当たり前に思われることが一番素晴らしいことだと、お答えになったのです。
西芳寺の下段の庭に入ってすぐの金剛池に、夜泊石(夢窓国師作庭当時に存在した回廊の礎石)と呼ばれる石が並んでいます。

いくつかの石からはモミジが生えており、一見すると鑑賞のために植えられたかのような風情があります。しかし、これは人の手によるものではありません。石の隙間に落ち葉がたまって、長い年月をかけて土となり、そこに飛んできたモミジの種が、非常に限られた養分によって発芽して大きくなったようです。
いくつもの奇跡が重なり、モミジはこの石の上で育っていきました。小ぶりではありますが、実は樹齢60年以上。過酷な環境のため大きくはなれなかったものの、それでも春には葉をつけ、秋には紅葉します。
このようなストーリーがあると知ると、石の上で懸命に生きているモミジがとても尊く感じられるのではないでしょうか。
これは、我々も同じです。人間が生を受けるのは奇跡的なこと。確率論的にいえば、一人の人間が誕生する確率は、遺伝子の組み合わせや生命誕生の複雑な過程を考慮すると、70兆分の1とも言われるそうです。そう考えると、こうして生きているだけでも、十分に尊いことなのです。
西芳寺にお参りに来てくださった際には、石の上のモミジを見て、ご自身を振り返ってみてください。
あれこれ余計なことを外に求めることを止め、今生かせていただいていることに感謝すること。そして、その土台には、必ず人や物の助けがあると気づくこと。それが「独坐大雄峰」のこころです。
合掌
洪隠山西芳寺 藤田隆浩