2026.6.12
西芳寺の地霊(前編)
日本美術史 古田 亮
堂本印象が描いた、西芳寺の抽象世界
ゲニウス・ロキとは、ラテン語で地霊、場所の精霊を意味します。西芳寺の歴史を振り返るとき、「時間の多層」は重要なキーワードであり、その時代時代の人の営みの折り重なりとは、まさに「ゲニウス・ロキ」と表現するのがふさわしい。
西芳寺の本堂に入るとまず目に飛び込んでくるのが、堂本印象によるモダンでエネルギッシュな襖絵。なぜ印象は、古刹の本堂に抽象画を描いたのでしょうか。2026年2月、「禅とアートの会」に東京藝術大学の古田亮先生をお招きし、西芳寺の襖絵の謎に迫りました。
古田 亮(ふるた りょう)
東京藝術大学大学美術館教授。東京国立博物館、東京国立近代美術館を経て、東京藝術大学大学美術館で学芸員として展覧会に携わる。専門は近代日本美術史。「琳派RINPA」展、「揺らぐ近代」展、「横山大観」展など多くの美術展を企画。著書にサントリー学芸賞を受賞した『俵屋宗達 琳派の祖の真実』(平凡社新書)、共編著に『近代日本の画家たち』(平凡社別冊太陽)、『日本近現代美術史事典』(東京書籍)など。

80歳まで描き続けた、超人的な仕事人

今日は、西芳寺の襖絵を描いた日本画家・堂本印象について、近代日本美術史の視点からお話しします。印象は84歳まで描き続けた人で、その長い画業の中で画風を大きく変化させていきました。西芳寺の襖絵は、後年の代表作といえます。
日本画と聞くと、多くの人は横山大観や竹内栖鳳のような作品を思い浮かべるかと思います。では西芳寺の襖絵は日本画なのかと問われると、そうであるとも言えるし、日本画の枠には収まりきらないとも言えるような、なんとも美術史家泣かせな存在です。
京都には堂本印象美術館がありますが、印象自らがデザインした建物には、どこか異様な雰囲気が漂っています。そこには、なんだこれはと戸惑うような、日本画とはかけ離れた世界が広がっていますから、どうしても堂本印象に対して、キテレツな人というイメージを抱いてしまいます。
しかし実は、近代日本美術の大きな流れの中に位置づけてみますと、彼の画風の変遷は意外と理解しやすいのです。
まずは堂本印象がどのような人だったのか、ということから話を始めてまいります。


(京都府立堂本印象美術館提供)
この2枚の写真は、印象の人となりをよく表しています。左の写真は、絵を描く姿ですね。彼はとにかく描き続けた人で、その仕事ぶりは超人的なものだったそうです。
一方、右の写真は、外を見ながら思索に耽っているように見えます。彼の絵からは、文学的、哲学的、あるいは宗教的な精神性が感じられます。頭の中にはきっと、さまざまな言葉が絶えず巡っていたのだと思います。
堂本印象は明治24年(1891年)に酒屋の三男として生まれ、非常に裕福な家庭で育ちます。お父さんは相当変わった人だったようで、酒屋を営むかたわら、さまざまな趣味や遊びを楽しみながら多くの人と交わる、文人のような人だったといいます。のちに印象は、京都の伝統に縛られることなく次々と新しいものを取り入れていきますが、そうした姿勢は、おそらくお父さん譲りなのでしょう。

幼いころから画才を発揮した印象は京都の画学校に通っていましたが、20代の頃に父を亡くし、家計を助けるために龍村織物という有名な織物屋さんで下絵描きとして働くようになります。
おそらくここで、描いて描いて描きまくるような仕事ぶりを身につけたのだと思います。やがてその働きぶりと腕の良さが認められ、美術の教育を受ける機会を得るなど、龍村織物の後ろ支えを受けて画家への道を歩み始めます。
そうしてデビューしたのは、大正時代に入ってからです。帝国美術院展覧会(帝展)という、現在の日展の前身にあたる公募展で毎年力作を発表し、受賞を重ねて画壇に認められていきます。
印象の中には、横山大観もいればピカソもいる

堂本印象「深草」大正8年(1919年)、京都府立堂本印象美術館蔵
印象の初期の作品は、日本画らしい作風です。同年代の、特に京都の若手画家たちに見られる写実的な要素があると同時に、円山四条派などの江戸時代から続く流派の名残りも感じられます。
20世紀に西洋の文化が入ってくると、ロマン主義的な表現やゴッホに代表されるポスト印象派などの西洋美術の影響も受けるようになります。また、当時爆発的な人気を誇っていた竹久夢二の影響を受けて、夢二風の美人画を描いてみる、ということもしています。
印象の作品は、これは大正後期に描いたもの、こちらは昭和初期といったように、描かれた時期がひと目でわかります。さらに言えば、この作品は横山大観を意識していて、こちらは竹内栖鳳に影響を受けている、といったことも見て取ることができます。それぞれの画風を真似できるほどの技術力を持っていたということです。
もっとも、これは作風を盗んでいるわけではありません。時代の流行や同時代に活躍する画家たちを強く意識しながら、それらを取り込み、自分の絵として昇華させていったのです。堂本印象は、きわめて個性的でありながら、同時代の流れに寄り添い、その中で成長していった画家であるといえます。

戦後になると、印象の画風は大きく変化します。この「或る家族」は、先ほどの「深草」と同じ人物が描いたとはとても思えないですよね。どうしてこうなったのかと、皆が驚いたはずです。
しかし同じ人だからこそ、この絵が描けるのです。印象の中には、横山大観もいれば竹内栖鳳もいて、マチスもいればピカソもいる。そう考えると、この大きな変化もそれほど変なことではありません。
それに、堂本印象の作品だけを追っていると突飛なことのように見えますが、戦後すぐにヨーロッパ・モダニズムへ向かった高山辰雄や東山魁夷、都会的な主題を取り入れた小倉遊亀など、同時代の日本画家たちもまた、同じような動きをしています。近代美術史の流れの中で俯瞰してみると、印象だけが特異だったわけではないことがわかります。
築き上げてきたものを全て壊す

昭和27年(1952年)、堂本印象はヨーロッパへと渡ります。
ヨーロッパでは古典的な作品にも数多く触れたはずですが、西洋美術の最前線を目の当たりにした印象は、それを自分に取り入れようとします。
留学というと、20~30代の若い時期に異文化に触れ、その刺激を糧に自らの画風を築いていくというのが一般的ですが、印象は違います。当時61歳で、すでに画壇の重鎮と目される存在でありながら、それまで築き上げてきたものを全て壊すことを試みたのです。私がもし60歳を過ぎて同じことをしろと言われたら、ちょっと億劫になってしまいそうです。非常にチャレンジ精神の強い人ですよね。

この「交響」は、彼の抽象画の代表作といわれています。ここまでくるともう、西洋美術をちょっと真似しましたというレベルではないですよね。こうして昭和30年代半ば以降、彼は抽象日本画の最前線を切り拓いていくことになります。
抽象画をどう見れば良いかを考える時、そこに物語を見出すことは難しいものです。絵から意図を読み取れと言われても、禅問答のようになってしまいます。そうすると、色と形だけで楽しむことになる。つまり「見ること」が絵の全てになります。
しかし印象は、そこに感情や他の感性を加えようとしました。その手がかりの一つとなるのが、作品名です。たとえば「交響」というタイトルからは、音の響きが想起されます。堂本印象の絵は、色と形による造形としての表現と、彼の中にある言葉との結びつきによって出来上がっているのです。

抽象画の道を歩み始めた印象の作品は、より哲学的なものになっていきます。しかし一方で、「ロゴスの不滅」にはペンやノートといった具体的なものも描かれています。このように完全な抽象ではなく、具体的なものも顔を出すというのが、堂本印象の画風の大きな特徴です。
ここまでくれば、西芳寺の襖絵が生まれた理由も納得がいくと思います。この後は、いよいよその襖絵に焦点を当ててお話ししていきます。
(後編は、6月下旬に公開予定です。)
編集:宮内 俊樹
執筆:細谷 夏菜
写真:望月 小夜加
画像提供:京都府立堂本印象美術館
※許可を得て撮影しています。

京都府立堂本印象美術館
昭和41年(1966年)、堂本印象によって設立された美術館。外装から内装に至るまで、すべてが印象自身のデザインによるもの。建設にあたっては、西洋の宮殿や現代作家の美術館を参考にしながら、独自の美を追求したという。令和7年(2025年)、国の登録有形文化財に登録。
公式ホームページ:https://insho-domoto.com