2026.7.30
西芳寺の地霊(後編)
武者小路千家第15代家元後嗣 千 宗屋
「あるがまま」にそこにある。西芳寺と茶の湯の美意識
ゲニウス・ロキとは、ラテン語で地霊、場所の精霊を意味します。西芳寺の歴史を振り返るとき、「時間の多層」は重要なキーワードであり、その時代時代の人の営みの折り重なりとは、まさに「ゲニウス・ロキ」と表現するのがふさわしい。
西芳寺と茶の湯に共通する禅の精神を深掘りする千宗屋さんの講演会。前半では、あるがままの美に迫りました。後編では、千利休から義理の息子・千少庵へと受け継がれた独創的な発想をたどるとともに、少庵が建てたとされる西芳寺の茶室「湘南亭」のちょっと変わった造りを紹介します。(前編はこちら)
千 宗屋(せん そうおく)
京都市生まれ。武者小路千家15代次期家元として2003年に後嗣号「宗屋」を襲名。慶應義塾大学大学院修士課程にて中世日本絵画史を専攻。2008年には文化庁の文化交流使を務める。茶の湯にとどまらず、古美術から現代アートまで幅広い分野に深い知見を持つ。

革新的な利休の茶室
利休が本格的に才能を開花させたのは、晩年の十年ほど。豊臣秀吉の政権下で茶頭の三番手から筆頭の茶道指南役に昇格すると、次々と新しい工夫を生み出していきました。
そのひとつが、妙喜庵にある国宝「待庵」(京都府乙訓郡大山崎町)という二畳敷の茶室です。何が興味深いかというと、当時は四畳半の茶室が一般的で、これを持てるのは名物を多く所有する茶人に限られていたんですね。一方で、三畳敷や二畳敷は、わびの精神を大切にする茶人たちのための茶室と考えられていました。つまり、小さな茶室とは本来、物を持たない茶人のための空間だったのです。
利休は、あろうことか小さな茶室を天下人である秀吉のために作りました。世の中で最も多くの物を持っている人物に、最も小さく質素な空間を用意したわけです。
さらに興味深いのが、内部のつくりです。当時の茶室では、天井には化粧板が張られ、壁にも鳥の子紙の張付壁が貼られることが一般的でした。しかし利休は、そうした装飾的な要素を取り払ったんです。天井は化粧屋根裏といって、構造を剥き出しにして床内の柱を土で塗りまわし、壁は「粗壁」といって仕上げ塗りを施さず、藁の混じった土壁をむき出しにした茶室を作りました。
装飾のない空間で、お互いの本心を露わにする
見栄をすべて取り払い、お互いの息遣いさえ聞こえてきそうな狭い空間。そうした場所は、当時の人々にとって、お互いの本心がむき出しになっていくような場でもありました。いわば、人がまとっている服も皮膚も越えて、心と心が溶け合うような空間だったのです。

このような小さな茶室は、利休が陣中で急ごしらえしたものが始まりだとも言われています。戦に向かう前、ここで一服の茶を飲む。もしかすると、もう二度と戻ってこられないかもしれない。そうした緊張感のなかでお互いに隠し事もなく心をさらけ出すという場だったのかもしれません。
西芳寺には、利休の養子である千少庵が建てたとされる「湘南亭」という茶室があります。ここも床の間が土で塗りまわされており、また、月見台の天井も土天井になっています。もしかすると、利休の茶室との意匠的な繋がりがあるのかもしれません。

義父・利休をも刺激した、千少庵の創意
少庵は特に建築に深い造詣があり、面白い逸話がいくつも残されています。
少庵はある日、自分で新しく建てた茶室を父に見せるため、利休を招きました。当時、茶室の床の間の寸法は五尺が一般的でした。これは立派な道具を飾るためであり、わび茶とは異なる道具ありきの茶の考え方が主流であったことがうかがえます。
ところが、少庵はそれより小さい四尺の床の間を作りました。利休がどのように反応するだろうかと緊張しながら迎えると、「この作意は優れている」と、褒められたそうです。利休は、帰宅するとさっそく大工を呼び、自分の茶室の床の間を一尺縮めさせ、同じ大きさにしたという話が伝わっています。
もうひとつ、この親子にまつわる面白い逸話があります。
茶室には突き上げ窓といって、屋根に設けられた窓板を外側に押し上げて上から光を茶室に入れるための窓がひとつあります。ところが、あるとき少庵はその突き上げ窓を天井にふたつ開けて利休を迎えました。すると利休は、「二つも開けておくものではない」と言い、片方を閉めるように伝えました。
少庵は言われた通りにしたのですが、しばらくして利休の茶会に招かれて行ってみると、なんと天井に突き上げ窓がふたつ開いていたんです。少庵が理由を聞くと、利休は「数寄(茶の湯)には、親も子もない」と言ったそうです。つまり、「お茶の世界には親子の遠慮など関係ない」「よいと思ったものは、自分が先に取り入れるから真似をするな」と、言いたかったのでしょう。利休の激しい気質が垣間見える逸話として伝えられています。

西芳寺と千家の繋がり
茶の湯の側から見てみると、西芳寺について直接触れた記録はあまり多く残っていません。しかし、表千家四代目で利休のひ孫にあたる江岑宗左が覚書きに書き残した逸話のなかに、興味深い話が伝えられています。
それは、利休が大徳寺の門前に構えた屋敷と、そこに建てられた四畳半の茶室「不審菴」に関するものです。宗左の記録によれば、この屋敷には利休よりも先に、養子である千少庵が住んでいたとも伝えられています。やがて利休もそこに移り住み、改めて不審菴を設け、露地に石畳を敷きました。これは、茶庭に石畳を取り入れた最初の例とされており、その案のきっかけとなったのが西芳寺の石畳だと、宗左が書き残しています。
おそらくこの話は、宗左が父である宗旦から伝え聞いたものだと考えられます。宗旦は、利休の養子である少庵の子にあたります。利休直筆の手紙など確固たる証拠が残っているわけではありませんが、利休が西芳寺に来たという伝承が、確かにあるわけです。

もうひとつ興味深いのは、少庵の隠居場所です。少庵は晩年、京都の町衆や公家たちと交流を重ねていたと伝えられていますが、その住まいについては、はっきりとした記録が残っていません。小川本法寺前(京都市上京区)の千家の裏に隠居屋敷があったらしく、現在の武者小路千家の場所も、もとは少庵の隠居所だったという説があります。
とはいえ西芳寺にも、少庵が隠棲していたのではないかという伝承が残っています。このあたりは京都の中心部から少し離れた静かな別荘地でしたから、不思議ではない話です。
もっとも、西芳寺側にも千家側にも、それを裏付ける文献記録が残っているわけではありません。しかし、少庵が西芳寺に建てたと伝えられる湘南亭を見ると、桃山末から江戸初期には建てられたことが推測され、少庵の晩年とも重なります。
そう考えると、千家と西芳寺には格別の親近感が感じられるのです。
湘南亭は自娯の茶室

湘南亭において、とりわけ象徴的なのが「亭主床」と呼ばれる床の間の構えです。一般的に、床の間は客が茶室に入ってきたときに最初に目に入る場所に設けられます。しかし湘南亭では、亭主がお茶を点てる際に座る位置のうしろに床の間があります。
つまり、この茶室は客のために設けられたのではなく、亭主自身が楽しむための自娯の空間といえます。客を迎えるというよりは、そこを訪れた人と一緒にお茶を楽しむような構えであり、茶人の隠居所としては誠にふさわしい構造なのです。
さらに点前座の釣り棚も、古い形式の「雲雀棚」に近いものです。茶室では、茶碗や棗などの茶器を置く棚が袖壁と呼ばれる小さな壁のそばに設けられることがあります。現在の千家流の茶室では、棚の下段が袖壁から少し見えるように造られているのですが、湘南亭では、棚が袖壁の上に取り付けられており、棚の下段やそこに置かれた茶器が客から見えない造りになっています。


こうした構えは少庵と同時代の古田織部など武家好みの茶室に多く見られ、会津若松の鶴ヶ城に残る茶室「麟閣」とも共通しています。麟閣も、はっきりとした証拠はないのですが、少庵が会津に身を寄せたときに好んだと言われています。同じ時代に建てられたと考えられるふたつの茶室に同じ伝承があり、似た構造をしているというのは、とても興味深いものではないでしょうか。
少庵に重なる、西山エリアの深み
さて、実は私の家には、少庵自作の茶杓が残っています。少庵は「柔らの少庵」と呼ばれるほど穏やかで柔和な人物だったと伝えられていますが、その茶杓もまた、非常に繊細でやわらかな趣をもつ、少庵らしい作風です。
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少庵は、千利休という茶の湯で最も有名となった人物を父に持ち、さらに千宗旦という三千家の祖となる人物が息子です。その間に位置しているわけですから、存在がやや霞んでしまいます。ですが、少庵が堺から京都へ上ったときには、「名誉の茶人が京都に来た」と言って、京都中の茶人がその茶会に招かれることを望んだと言われるほど、力量のある茶人でした。
こうした少庵の立ち位置は、西芳寺のある西山の存在とも、どこか重なります。京都では、金閣寺に象徴される華やかな北山文化や、銀閣寺に代表される侘び寂びの美意識が漂う東山文化が良く知られています。こうした場所は今も観光客でにぎわっており、いわば「公(おおやけ)」の空間です。
それに対し、西山は「私(プライベート)」の要素が強い。山肌に囲まれており、京都市の中心部や嵐山と比べても非常に静かで、まさに隠棲の地にふさわしい趣です。しかし同時に、文化的にも歴史的にも重要な遺構が数多く残る場所でもあります。
古墳時代には、西芳寺の隣を流れる西芳寺川流域に秦氏が拠点を構えていました。さらに、少し山を上がった場所には古墳群も残っており、この地に有力者が定住していたことがうかがえます。また、同じく西山に属する大山崎には、先ほど触れた利休唯一の現存茶室「待庵」もあります。
このように西山は、陰に隠れた存在でありながらも、深い歴史と文化を内包している場所なんです。この一歩控えたような雰囲気とプライベートな空間こそが、少庵や西山文化の魅力ではないでしょうか。
西芳寺という地をきっかけに、表舞台ではやや影に隠れてきた少庵という人物に光を当ててみることも、またひとつの楽しみ方なのかもしれません。
編集:宮内 俊樹
執筆:福田 安奈
写真:into Saihoji編集部
※許可を得て撮影しています。