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about Saihoji

波乱と悠久の歴史

西芳寺のあるエリアには、古代その高い技術力で京の発展に寄与した氏の古墳が点在し、聖徳太子の別荘があったと伝えられています。
731年、行基菩薩法相宗の寺として開山したのを起源に、鎌倉時代初期には法然上人が浄土宗に改宗、さらに1339年に作庭の名手でもあった高僧、夢窓国師が臨済宗の禅寺として再興しました。
足利義満や義政をはじめ西芳寺で坐禅に励んだ者も多く、金閣や銀閣などの庭園の原型になったともいわれています。

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秦氏
聖徳太子
 
行基菩薩
 
 
弘法大師(空海)
 
 
 
 
 
 
 
法然上人
 
 
 
 
夢窓国師
 
 
足利義満
 
足利義政
 
 
織田信長
 
千少庵
 
 
 
 
 
 
岩倉具視
 
 
川端康成
堂本印象
スティーブ・ジョブズ
 
 
 
法相宗「西方寺」開山
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浄土宗へ改宗
 
 
 
 
「西芳寺」と改め、臨済宗へ改宗
庭の原型をつくる
 
 
西芳寺を模して金閣・銀閣を造営
 
応仁の乱で境内全域焼失
 
 
 
 
 
幾度とない川の氾濫で荒廃
荒廃し、苔の繁茂が盛んになる
 
 
 
 
 
 
 
 
 

法相宗「西方寺」の創建

奈良時代に聖武天皇の詔勅により、行基菩薩が畿内四十九院のひとつとして創建した「西方寺」が西芳寺の起源です。現在の「西芳寺」になったのは室町時代以降のことです。行基菩薩は自作の阿弥陀三尊像を刻み、阿弥陀如来を中心に観音勢至の両菩薩を脇侍として本尊とし、法相宗の寺として開創しました。

平安時代に入ると弘法大師空海が入山し、境内の黄金池放生会が行われました。放生会とは、捕えられた魚や鳥などの生きものを解放して殺生を戒める法会のこと。これが、我が国の放生会のはじまりとされています。

西方寺池庭縁起 急溪中韋筆
 室町時代(応永7年)1巻 紙本墨書

荒廃と再興。
法然上人により浄土宗へ。

時が過ぎ、西方寺は一時衰微しますが、建久年間(1190~1199年)に入り摂津守中原師員が荒廃した寺を修復し、西方寺と穢土寺に二分して浄土宗の祖の法然上人を迎えました。法然上人は行基菩薩によって祀られた本尊の阿弥陀三尊を金泥で美しく飾ります。これが現在の西芳寺のご本尊です。
その後、法然上人の高弟である親鸞聖人も西方寺にとどまり愚禿堂を建立、また正嘉年間(1257~1259年)には執権北条時頼桜堂を築くなど、寺運は大いに栄えました。ところが、師員が没すると西方寺は再び荒廃してしまいます。

中興開山、
夢窓国師による再興

兵乱による荒廃の後、松尾大社の宮司藤原親秀の招請で、暦応2年(1339年)に当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓国師が禅寺として再興。寺名は同じ音を残して「西芳寺」と改められ、「西芳精舎」の額がかかげられました。夢窓国師は仏殿を「西来堂」と名付け、庭園の大規模な修復作業にとりかかります。
この時代の庭園の主流は池を主とした池泉庭園でしたが、夢窓国師は石組を庭の主役とし、禅の精神性をもその中に反映させた、革新的なものでした。足利義満や義政をはじめ、西芳寺を訪れて坐禅に励んだ者も多く、後に造営される金閣や銀閣など、室町時代を代表する庭園の原型になったといわれています。

【コラム①】
足利義政が銀閣を造ったのはお母さんに西芳寺を見せたかったから?

日本で初めて作庭された西芳寺の枯山水の庭は、多くの貴人を虜にしました。なかでも足利義満と義政はたびたび西芳寺に訪れ、のちに金閣や銀閣を造営する際の参考にしたといわれています。とりわけ銀閣の庭園は、西芳寺の庭園を忠実に参考にしているといわれていますが、その理由のひとつとして、当時の西芳寺が女人禁制であり、義政の母が参拝できなかったため、なんとしても母に西芳寺の姿を見せたいという義政の想いがあったといわれています。

度重なる戦火、
洪水を乗り越え
「苔寺」としての再出発

室町時代、多くの貴人や武将に愛された西芳寺ですが、応仁・文明の乱の戦火は洛外といえど避けられず、建物は全焼してしまいます。さらに、文明17年(1485年)には洪水で痛めつけられ、本願寺の蓮如上人の援助で再建されますが、織田信長の京都進駐を妨害しようとした丹波の柳本勢が谷地に放火したため、ふたたび全焼の憂き目に遭います。信長が天龍寺の策彦周良に命じて西芳寺の殿舎を再興させたため、なんとか存続することができました。
江戸時代に入ってからも、西芳寺川の氾濫によって幾度とない洪水の被害を受け、さらに明治時代に入ってからは廃仏毀釈によって寺地が狭まるなど非常に厳しい時代が続きましたが、有名無名を問わず、数多の先人たちの尽力があったからこそ今日の姿があります。1928年、阪急電車嵐山線の開通と同時に庭園の一般公開を開始します。庭を覆う120余種の苔の美しさは、現在に至るまで「苔寺」として親しまれていますが、庭一面に苔むすまでには実に100年以上もの時間が経過しており、皮肉にも荒廃の歴史が苔の美しさを創り上げた、ともいえるのです。

悲願の本堂再建。
寺院の在り方を
見つめなおす

昭和44年(1969年)、応仁・文明の乱で焼失した本堂・西来堂が500年ぶりに再建されました。襖絵は昭和の大画伯、堂本印象による抽象画で、これまでの寺院の襖絵に描かれてきた山水図とは一線を画す、モダンでエネルギッシュな画風が異彩を放ちます。中興開山の夢窓国師が庭園の常識を覆したように、変革を恐れない西芳寺の姿勢が、この襖絵からも見てとれます。

現在は庭園の一般公開を閉ざし、事前申し込みによる少人数参拝のみ、本堂での写経を経ての庭園拝観としています。これは昭和52年(1977年)からのことで、押し寄せるクルマによる交通障害、また心無い人々によって境内の苔が荒らされるのを恐れ、仏教寺院として本来の宗教行事に専心するためです。檀家をもたない西芳寺にとって、参拝者の数を大幅に減らすことは苦渋の決断でしたが、皆様に心静かにお参りいただきたいという願いから、大きく舵を切りました。

2031年、西芳寺は開山1300年を迎えます。これまで、足利義満などの時の権力者をはじめ、川端康成やスティーブ・ジョブズなど、多くの人々に愛され、支えられて参りました。これからも皆様にとって、心調い、閃きの源となるような場であり続けるため、そして後世につないでいくために歩みを進めて参ります。

【コラム②】
西芳寺で生まれた日本初

今では日本の代表的な庭園の形式といわれる枯山水ですが、室町時代に夢窓国師がここ西芳寺で作庭したものが初めてといわれています。さらに、多くの仏教寺院で行われる殺生を戒める放生会が空海によって初めて行われたのも西芳寺です。他にも、お寺での事前申込制の導入や専属庭師による庭園の維持管理など、いつの時代も変化を恐れず革新的な取り組みに挑戦してきたことも、長きにわたって愛されてきた由縁かもしれません。