2024.2.28
西芳寺を継ぐ手しごと
「水路復元」
先人の知恵と工夫を解き明かし、700年前の水路を復元する
“Moss Garden”としても世界的に知られる西芳寺。日々参拝者を出迎えるために寺院や庭園は多くの人や技術によって支えられています。西芳寺に携わる方々の仕事の中から、文化を支えるとはなにか、歴史をつなげるとはなにか、を探ります。
西芳寺の庭園は、臨済宗の禅僧であり作庭の名手でもあった夢窓国師により造られました。西芳寺は2031年に開山1300年を迎えることから、現在、作庭当時にあったと考えられる水路を復元する事業に取り組んでいます。第4弾に登場いただくのは、今回の水路復元事業の委員長である尼﨑博正先生。事業の意義や西芳寺庭園の魅力について、お話を伺いました。
尼﨑 博正
造園学者、作庭家、京都芸術大学名誉教授、日本庭園・歴史遺産研究センター名誉所長。1946年生まれ。京都大学農学部を卒業後、京都市内の造園業者に弟子入りし、さまざまな現場で経験を積んだのち独立。同時に長きにわたり、多くの学生に造園の歴史・文化や作庭について教えるとともに、専門家として全国で文化財庭園の保存修復を指導。1992年に日本造園学会賞を受賞、2014年には京都市文化功労者として表彰される。
専門家と意見を出し合い、調査に臨む
ー尼﨑先生が、造園に興味を持たれるようになったきっかけを教えてください。
私はもともと、京都大学の大学院で森林生態学を勉強していました。その中で造園に関心をもち、京都市内にあった造園業者に弟子入りをしたんです。修業を始めて7年ほど経った頃でしょうか。京都芸術短期大学(現:京都芸術大学)から実習の先生をしてもらえないかとお声がけいただいたのを機に、独立して庭造りをしながら、教壇にも立つようになったんです。
現場では、文化財庭園の修復をされている森 蘊先生や、村岡 正先生にご指導をいただき、専門性を磨いていきました。
ー先生が今回の事業に関わることになった経緯を教えてください。
西芳寺の水路復元事業は、2021年から京都市の文化財保護課によって発掘調査が行われていて、私も見せてもらいましたが、2023年から本格的に復元整備が始動することになり、委員会が設置されました。なお2023年以降の指定地内の発掘調査は京都市埋蔵文化財研究所が担当しています。
たとえどんなに優れた学者であっても、間違った判断をしてしまうことはあります。そういった可能性をゼロに近づけるために、複数の専門家が多角的な視点から意見を出し合って検討するのが、委員会の役目です。私が造園の視点で意見を出す一方で、考古学者の鈴木久男先生から発掘についての所見、歴史学者の下坂守先生からは文献についての知見を出し合い、協力して事業を進めていきます。もちろん、西芳寺さんをはじめ、文化庁・京都府・京都市、そして設計監理者、施工者の方々など、委員会には合わせて17名が出席しています。
ー水路復元について、概要や現状を教えていただけますか。
かつて庭園に流れていた水路を知ることができる有力な資料は2つあります。ひとつは、15世紀前半に来日した李氏朝鮮の使者がまとめた手記「日本栖芳寺遇真記」。もうひとつは、16世紀に描かれた「洛外名所図屏風」です。応仁・文明の乱や災害などの影響で西芳寺に関する書物が失われてしまったため、その他の資料はほとんど残っていません。しかし、現地には水路跡らしい窪みがみられ、近代の研究者による実測図にも部分的に描かれていたのが大きな手掛かりとなりました。
京都市が行った発掘調査では、全長30メートルほどの水路跡とみられる中世と近世二時期の遺構が検出されています。今後は2025年度の完成を目指して、引き続き発掘調査結果に基づいて、復元工事を進めていく予定です。
時代の流れや職人たちの手仕事に、思いを巡らせる
ー水路を復元するにあたって、難しいことはありますか。
西芳寺の庭園は、これまで荒廃したり修復されたりを繰り返してきました。現在、庭園の一面は120種類ほどの苔に覆われていますが、もともと作庭時には白砂が敷かれていたようです。度重なる戦乱や洪水により荒廃していた間に苔むしていきましたが、たくさんの方々の尽力によって、今日まで受け継がれてきたんです。庭園の原型をつくったのは夢窓国師ですが、積み重ねられた先人たちの想いを受けとめ、どの時期の水路を復元するかが重要になってきます。
水路復元後の全体の景観は、夢窓国師が作庭した中世の頃を目指していますが、水の流れは地形などの実現性を考慮して、近世の姿を再現することになるでしょう。それぞれの間には時代の開きがありますので、複合的な視点で考えて、ひとつのかたちに落とし込まなくてはいけないのが、復元作業の難しいところですね。
ー先生が思う、復元作業の面白さとは何でしょうか。
庭園をつくったのは当時の職人たちです。発掘をしていくと、造成から構造や素材まで、制作過程が徐々に分かってきます。ただし、発掘は復元整備の根拠を得るために行うものですから、遺構を傷めないよう慎重かつ的確な判断が求められます。先人たちの研究を土台に議論しつつ、実際の発掘調査でひとつひとつ解明していく。そしてタイムカプセルを開けるように、時代の流れや職人たちの手仕事に思いを巡らせていく。この面白さは理屈だけでは語れませんね。
ー今回の水路復元事業の意義は、どのようなところにあるのでしょうか。
研究者の1人としては、先人の知恵や工夫を解き明かすという意義や魅力があります。しかし、今回の事業で何よりも大切なのは、西芳寺さんの想いです。ずっと受け継いでこられたこの庭園を、どのように次の世代につないでいきたいのか。信仰の場として庭園に込められた大切なもの、それをどのように伝えていこうとされているのか。修復して造形を整える以前の課題として、肝に銘じておきたいと思います。
また、水路を復元する意義は景観を整えるだけではありません。近年の温暖化の影響によって、西芳寺の苔は以前よりも弱ってしまっているようです。完成予定の水路は川から水を引くため、水路が整えば庭園に潤いがもたらされ、苔の保全にもつながるはずです。
積み重ねられてきた人々の想いや技術を受け継いでいく
ー事業に参画される前にも、西芳寺を訪れたことがあったのでしょうか。
私が最初に西芳寺を訪れたのは、50年ほど前だったと思います。下段には黄金池を中心とした池泉回遊式庭園、上段には枯山水庭園という自然に融け込む空間づくりに感動した記憶がありますね。西芳寺の枯山水は、日本最古のものとされています。枯山水という言葉は平安時代からありますが、それはあくまで庭園内の石組を指す部分的な表現だったようです。しかし夢窓国師は、枯山水を庭園全体を構成する要素として大きく展開しました。(上段の庭は通常非公開)
また、平安時代までの造園といえば、自然の風景をそのまま再現することが一般的でした。しかし、夢窓国師は自身が捉えた自然の美しさを独自の手法で表現するような造園を始めたんです。それぞれの感性で造園をしようという動きは、そのときから一気に広がっていきました。
これらのことから西芳寺の庭園は、歴史的に大きな転換点となった庭のひとつだといえます。
ー西芳寺庭園の美しさとは何でしょうか。
造形の素晴らしさはもちろん、立地環境とその時代の文化的風土だけでなく、夢窓国師の思想を盛り込み、造園の新しい可能性を提示したことに美しさが宿っています。
造園とは、自然との共同作業だと捉えています。特に、夢窓国師は自然に対する洞察力がずば抜けていたと思います。きっと、庭造りと修行は一体のものだと考えていたのではないでしょうか。
ー先生は、造園の魅力をどのように感じていますか。
造園に限らず、ものづくりというのは自分自身を追求することです。謙虚に、様々な知恵と工夫をこらしながら打ち込む先は、最終的に、皆同じところにたどり着くような気がしています。
それは、人間は自然の一員だと自覚すること。まさに、自然とともに生きるということですね。そういう意味では、この事業に携わっている全員が、同じ想いを共有する仲間だと考えています。
ー最後に、西芳寺の庭園を未来につないでいくためには、何が大切だと考えているのか教えてください。
今眼の前に見えているものと、まだ地下に眠っているもの、そのどちらにも思いを馳せることが大切です。
発掘調査を進めていくと、当時の考え方や技術を物語る貴重な遺構の中に潜んでいる「情念」のようなものに出会うことがあります。これまで積み重ねられてきた人々の想いや技術を、どこまで大切にしていけるのか。どのように自然と共存して生きていくのか。今回の事業は、それらを考え直す出発点のひとつといえるでしょう。参拝に来られる皆さんには、新たに蘇った庭園とじっくり語り合ってもらえれば、大変嬉しく思います。
編集:宮内 俊樹・俵谷 龍佑・細谷 夏菜
執筆:小黒 恵太朗
写真:望月 小夜加
※許可を得て撮影しています。