2026.10.29
心のレッスン 「最後の日を想う」
形を持たないものの輪郭をあらわにし、その真髄に迫る「心のレッスン」シリーズ。第6回のテーマは「最後の日を想う」です。テーマを軸に、西芳寺副住職の藤田隆浩氏にお話を伺い、体験や思考、日々感じることなどを様々な形でお伝えしていきます。
人生は有限であり、誰もが必ず死を迎える。この動かしようのない事実において、人はそれを意識することで、よりその生を色濃く、力強くすることができるのかもしれません。「死」の禅的な捉え方をさまざまな角度で話した心のレッスン第3回「生と死」、そしてその続編として「死」が私たちに何をもたらし、どう「死」と付き合っていくかを模索する今回。ひとつのテーマ/問いを通して、自分の生を全うするためのヒント、日々を最善のものにしていく軸について考えていきたいと思います。
「死」を身近に置く
「死」があることは摂理であり、病気になることや空気が存在すること、山や海があることと同じように抗えない事実です。ただ、戦後の日本において、医学が発展し平均寿命が延び、自宅ではなく病院で亡くなることが一般的になり、他者の死を通して「死」を身近に感じる機会が減ってしまった。その弊害が、老いや病といった「死」へとつながる事象、「死」そのものへの極端な忌避、不確定な未来への恐れにつながっているのではないでしょうか。日本における「死」と個/社会の関係性を、藤田さんはそのように捉え、だからこそ“最後の日を想う”ことの重要性を説きます。

「普段から『死』を遠ざけ、忘れているからこそ、突然直面した時に恐怖を感じる。それは、準備がないまま気づいたら高齢になり、あるいは大病を患いお迎えが来てしまう、焦りのようなものです。
90歳以上の方々に『心残りは何か?』と聞いた社会調査があります。1番多かった回答は何だと思いますか? いろんな国を旅してみたかった、こんな生活がしたかったとか、いろいろありそうですよね。実は『もっと挑戦したかった』だそうです。人生がまだまだ続くと思っていたから、挑戦を先送りにしてしまったのでしょう。逆に、今日が最後の日だと思えば、何をすべきか、何をしないかの決断ができるはずです」
日常のなかで「死」を身近に感じる術として、映画や小説などの仮想コンテンツは世に多くありますが、なかなかそれを切実に受け取ることは難しい。藤田さんはどのような心がけをしているのでしょうか。
「以前の心のレッスンでもお話ししましたが、私は過去3回死にかけた経験があり、今は余生、ボーナスタイムだと思って生きています。人生とは本来、生まれた瞬間からそのようなものです。良い学校に入る、エリートになる、あるいは美味しいものを食べることだけが人生の目的ではない。人によって得意なことや適性も異なります。文章を書くことで社会に貢献する人もいれば、医者として活躍する人もいる。それは先天的/後天的な要素が組み合わさって自ずと見えてくるものです。
当たり前ですが、自分が何に挑戦し、何をすべきかは自分で探さなければなりません。ただ、“生まれたことの奇跡”と“いつか死ぬという現実”をよくよく理解していなければ、本気で探すことは難しいでしょう。だからこそ、今回のテーマがひとつの重要な判断基準となりうるのです」

最善を試行錯誤する
If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?
これは、スティーブ・ジョブズ氏がスタンフォード大学の新たな卒業生に向けたスピーチの、有名な一節です。直訳すると、「もしも今日が人生最後の日だとしたら、私は今からしようとしていることを本当にしたいと思うか?」。本テーマも、実はこの言葉から出発しています。
人生において何をなすべきか? これを人生の目標=ゴールの設定を行うことと捉えることもできます。仏教の場合は、“悟り”がひとつのゴールとされていますが、本当に悟った人は、それを言葉にしたり誇示したりはしません。藤田さんは「人生を全うするということも、表彰されるような結果のためではなく、通過点にすぎない」と語ります。
「僕は、お寺に入る前、ある企業に勤めていました。その時は、プライベートでも仕事でも目標をつくり、半年や1年の期間を設定し、計画を立てていました。そうした未来の目標に向けて活動していくことも重要です。加えて、禅の生き方は、瞬間瞬間を自分の声に従って真剣に生きることです。どちらかではなく、その両方の軸を持つというのが僕の生きる上での考え方なんです」

「自分の声に従って生きる=怠惰に生きて良いということではありません。規律を持って日々を過ごしながらも、一瞬一瞬に集中する……このニュアンスを伝えるのはとても難しいのですが、今日この瞬間に終わっても良いという覚悟で最善の点を重ねていくということ。それは、最善を尽くそうとする意志と、それが本当に最善であるかという判断、その両方をやり切るということです」
ジョブズ氏が「もし今日死ぬとしたら、本当にこの選択をするのか?」と自問自答したように、他者の都合や価値観ではなく、自分の軸をもって判断すること。物事の終わりを意識することこそ、私たちの思考を最善へと向かわせるのかもしれません。
先人が遺したものを眺める
取材を行った日、普段は公開されていない西芳寺の上段に位置する枯山水の庭を見学することができました。1339年、夢窓国師によって築かれた日本最古の石組の庭を眺めていると、目の前に広がっている風景を先人はどのように捉え、何を考えつくったのだろうと、思考がめぐっていきます。人の「生」と「死」の先に連綿と紡がれてきたものと向き合うなかで、自ずと内面に深く潜り「自分は何者か」「何をすべきか」と問い直していく。他者が遺したものを眺めるということも、死を身近に捉え「最後の日を想う」ことと重なる行為なのかもしれません。
「お寺は本来、人と人の関わりが基本原則となる場です。枯山水の庭を歩くだけで、過去にこの場所を守ってきた人々や、作庭した夢窓国師の想いを感じることができる。そんな“人の層”ともいえるものが庭を作り出しており、その歴史の連続性と向き合えることこそが、本当にかけがえのないものです」と藤田さんは語ります。

よく言われる「人の本当の死がいつなのか」という問い——物理的な死を遂げた時なのか、あるいは誰からも忘れ去られた時なのか。枯山水の庭は、人の「生」と「死」のあり方を問い直す場とも捉えることができそうです。「お寺がこうした死生観に関わる考え方を社会に発信していくことこそ、あるべき姿のひとつ」だと藤田さんは語り、今後数年かけて取り組んでいきたいことも共有してくれました。
「西芳寺が考える“弔いのあり方”を、世の中へ提示しようと考えています。現代、死が忌避されるようになった背景には、医療の発達により寿命が延び、介護疲れや経済的圧迫が深刻化したこともあるでしょう。介護における疲労は大きく、死を解放と捉えてしまう側面もある。それでも、死を身近に感じてほしい。身近な人だけでなく、第三者の死からも学べることはあるはずです。
葬儀が小規模化し、死に出会う確率が減っていますが、ここでの『弔い』は、故人の遺言とは別に、人生の教訓や次世代への想いを残していただく場にしたいと考えています。例えば、亡くなる直前に、『こういう風に生きたらもっと良かった』ということをお話しいただいて、本人が安心して最期を迎えられ、その想いが後の世代の糧になるよう記録をとっていく。見知らぬ誰かの人生の軌跡とはいえ、戦争を経験された方や高度経済成長期を生きた方の生の声は、どんな映画や本よりも生々しく聴こえるはずです。交流しづらい世代間をつなぐきっかけをつくることも、お寺の大切な役割だと考えています」
人の死を身近に感じ、それを許容し、手を合わせる場としてありつづけること。西芳寺自体も、時代の移り変わりのなかで最善のかたちを探求しています。

「生きること」の本来の姿とは?
「死」を意識することは、この世に生まれ落ち、日々生きて/老いていく、死へと向かうその時間を考えることでもあります。藤田さんは「どのような状況にあっても、禅的に工夫をしつづけることが大切だ」と語ります。
「中国の唐代に活躍した百丈懐海禅師は『一日作さざれば一日食らわず』という言葉を残しました。これは「働かざるもの食うべからず」のような、単なる労働の話ではなく、その日にできるベストを尽くすという意味をもっています。病床にある方も看護師に感謝を伝える、老いさらばえても草を1本抜くなど、自分以外の何かのために、今の自分にできるベストを尽くし続けることが求められています。
人生は借り物であり、授かり物。自分だけが幸せになるということはあり得ません。他者のために考え行動することが、本当の幸せであり生き甲斐となるのではないでしょうか」

自分自身が本当に求めている心の声を聴きつつ、同時に他者の幸せを願うこと。「自他一如」という禅の言葉があります。これはまさに自分と他者は本来ひとつであり、他者の喜びや痛みを自分ごととして捉える慈悲の心の表れです。
「アフリカのサイの話をご存知ですか。その年の厳しい乾季を乗り越えられないと悟った年老いたサイは、地面に穴を掘るんですよ。そうして、その穴のなかで息絶える。雨季になるとたくさん掘った穴に水が溜まります。サイは死して尚、他の動物たちのために水場を遺すのです。これが生きるということの本来の姿ではないでしょうか」

編集:宮内 俊樹・細谷 夏菜
執筆:永江 大
写真:望月 小夜加
※許可を得て撮影しています。