2025.5.30
西芳寺の地霊(前編)
メディア論 柳瀬博一
超一等地に立つ西芳寺と流域の記憶

ゲニウス・ロキとは、ラテン語で地霊、場所の精霊を意味します。西芳寺の歴史を振り返るとき、「時間の多層」は重要なキーワードであり、その時代時代の人の営みの折り重なりとは、まさに「ゲニウス・ロキ」と表現するのがふさわしい。
古くは聖徳太子の別荘があったとされ、2031年には開山1300年を迎える西芳寺。2025年2月、東京科学大学リベラルアーツ研究教育院教授の柳瀬先生に「時間の多層」をテーマに講演していただきました。川の流域という柳瀬先生ならではの視点から、この地の発展の背景を探っていきます。
柳瀬 博一(やなせ ひろいち)
東京科学大学教授(メディア論)、小網代野外活動調整会議理事。1964年、静岡県浜松市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、日経BP社入社。2018年より現職。教育に携わるかたわら執筆活動を続け、『東京国道16号線日本を作った道』(新潮社)『カワセミ都市トーキョー(幻の鳥はなぜ高級住宅街で暮らすのか)』(平凡社)など多数の著書を執筆。社会や環境、文化の変遷を鋭い視点で捉えている。

西芳寺は流域の大家さん

私が西芳寺周辺の地形を調べてまず思ったことは、西芳寺は「流域の大家さん」であるということです。さらに西芳寺には7世紀に聖徳太子が住んでいた頃から湧き続ける湧水がある。そうした豊かな水源に、人々を惹きつける理由があるのではと考えています。
西芳寺のすぐ隣には、西芳寺川が流れています。北松尾山の山間をくだり平野部へと流れ、桂川に合流する。これが西芳寺川流域の全体です。上空から見ると、山間からの川の出口から平野部にかけて、扇状地が広がっています。川から流れてきた土砂が溜まってできる地形です。西芳寺へ向かっていくと、桂川からの平坦な土地が急にぎゅーっと狭くなり左右に山が迫ってきて、道沿いには西芳寺川が流れています。この川が扇状地を形成する出口の左岸斜面に、西芳寺があります。

この流域がどういう場所かを説明します。今から約1800年前、西芳寺の北東に位置する太秦に、秦氏という氏族が百済から入ってきたそうです。太秦は、弥生末期から古墳時代にかけての非常に早い段階で有力な渡来人が定住した、京都でも最初の場所の一つだと言われています。渡来人が生活拠点を構えた場所のひとつが、西芳寺川流域でした。
権力者たちが選び抜いた土地
秦氏が京都に来たときに西芳寺川流域に拠点を設けた理由は、この土地の恵まれた水資源が関係していると思います。境内には湧き水があります。現在もこんこんと水が湧き続けていますね。西芳寺の湧水は聖徳太子が見つけ、今でもお清めの水として使われていると聞きました。
湧水は、人類が生活の場を見つける際に最も重要な「資源」です。命に関わるからです。人は2週間ご飯を食べなくてもなんとか生きていけますが、3日間水を飲まないと死にます。だから、すべての文明は、川沿いや湧水沿いで発展してきました。

西芳寺川には、いくつもの支流があり、それぞれの源流部には必ず湧水があります。西芳寺よりも奥へと坂道を上っていくと、西芳寺川流域沿いに古墳群があり、秦氏たちが湧き水や小流域ごとに定住していたことが分かります。古墳は当時、有力な人物の存在を示す目印でした。一般的に古墳は水田と一緒に作られていましたから、この場所には巨大な墓を作れるほどの技術力と財力、そして豊富な食糧があるということを、古墳の存在が示しているんです。
巨大河川を治水して大規模な水田を形成するには、近代的かつ大規模な土木技術が必要です。そのため、なぜこんな山の上に古墳があるのかと、不思議に思う方もいるかもしれません。日本では元々、小流域の谷戸地形を生かした棚田で米を作ってきました。谷戸の棚田は、田んぼのような大河川の川縁ではなく、谷の源流部の水系を管理することで作ることができます。高度かつ大規模な技術がない時代でも、なんとか作れたんです。
秦氏が西芳寺川流域周辺に拠点を設けた理由は、飲み水や生活用水の確保ができたからでしょう。また、谷戸が多いエリアですから、米作りも容易だったはずです。尾根沿いに暮らせば、水害にも遭いません。秦氏たちが拠点を設けた場所は、生活の便が良く、水が確保でき、米も栽培でき、治水面での安全性も高い、抜群の一等地だったはずです。
人類は、アフリカから世界各地へと広がっていった時代から、こうした小流域源流部を探していました。そして見つけ出した小流域源流部には、時の権力者が拠点を構えます。砂漠のオアシスと同じことが言えます。当時、京都のこの地域で勢力を伸ばしていた秦氏が選んだ場所、そこに流れていた小流域の出口に、西芳寺があるということです。
水の流れが育んできた、西芳寺の歴史

西芳寺のすぐ近くには、大型河川の桂川があります。縄文時代にはすでに日本各地に航海技術や水運技術がありました。弥生から古墳時代にかけて、船などを使った水運技術はさらに向上します。各地の大型河川は物流と交通に使われていていました。桂川に繋がった西芳寺川流域での暮らしは、物流の便の良さという面でも暮らしやすかったはずです。
古墳時代以降には、畿内が完全に日本の中心となりました。背景にあるのが、瀬戸内から大阪湾、そして淀川水系、琵琶湖に至る水系を活用した、物流と交通を支える船舶技術です。桂川は、淀川水系の一部。高度な技術を持つ渡来人たちが西芳寺周辺に拠点を持つということは必然だったと思います。
淀川水系という流域は、琵琶湖から京都、そして大阪までをすべて覆っています。船での物流を利用し、琵琶湖方面からは陸路を介して若狭湾の魚が、大阪方面からは瀬戸内の物資が入ってくる。京都は内陸にありますが、海と繋がっているわけですね。桂川沿いにある西芳寺のエリアも同様です。
河川流域をコントロールする技術は、古墳時代から徐々に発達してきました。古墳自体が、川をコントロールする土木技術なしではできなかったはずです。淀川水系の支流にあたる桂川のさらに支流にあたる小流域で、人々の暮らしが発達しました。その後、隣の宇治川水系の盆地部分が都になります。西芳寺が建つ場所は、京都に都が置かれる前から有力者によって発見されていたわけです。
京都の多種多様な水と森の世界は、神社仏閣と共に守られてきた

さきほど、西芳寺を歩いているとき、カワセミを見かけました。私の著書『カワセミ都市トーキョー』にも書いていますが、カワセミの生息地は、人類が欲する生活拠点の条件と重なります。東京では今、カワセミの数が増えています。特に高級住宅街の周辺に多い。なぜなら、東京の高級住宅街には、かならずと言っていいほど湧水や湧水由来の池や水辺を有した公園などがあるからです。練馬区だと、石神井公園に湧水がありますね。石神井公園は、かつて武家として勢力を誇った豊島氏の巨大なお城があった場所です。あと、新宿御苑にも湧水があります。ここには、宿場の内藤新宿があり、かつての大名一族が拠点を構えていました。渋谷区松濤には松濤鍋島公園があり、南麻布には有栖川公園があります。
東京の西半分は、多摩川によって形成された武蔵野台地です。武蔵野台地はあちこちから湧水が出ており、その数は東京だけで700に及びます。この湧水の周囲に、旧石器時代から人が集まり、集落を形成してきました。縄文、弥生、古墳と時代を経ても、人々の営みは消えず、平安末期からは台頭してきた武士団の長が城を構えて、江戸時代になると譜代大名や御三家がお屋敷を建てるようになりました。明治維新以降、大名屋敷があった場所は、有力な財閥や天皇の領地になり守られてきました。戦後も公園などになり、大半の湧水が今も守られています。さらにこの湧水は、神田川や目黒川、石神井川など、近くの大きな川に流れていきます。
都市河川は、緑豊かな環境にある湧水と下水道の発達で水が綺麗になりました。東京のカワセミは、そこで暮らす魚やエビなどを餌に毎年子育てを行い、数を増やしています。

京都で湧水を有する自然がどのように守られてきたのか。神社仏閣が東京における大名屋敷の役割を果たしてきました。一番自然に恵まれた場所に、神社仏閣が存在していたから、貴重な湧水の自然を1000年もしくは2000年近く受け継いで来れたんです。これが、京都の多種多様な水と森の世界を守ることに繋がったんだと思います。西芳寺もその一つです。
まとめますと、西芳寺周辺には、非常に水が豊かで物流や交通に使える大型河川の桂川があります。この土地では、京都の中心地が発展する以前から、有力な渡来人たちが文化や文明を築いてきました。その支流である西芳寺川の出口に西芳寺が建っている。この立地条件こそが、西芳寺の立ち位置を規定し、現在も苔寺として愛され続ける必然を生み出しているのではないかと考えています。
後半は6月13日公開。自然環境の変化と西芳寺を未来に受け継いでいくための重要な視点について考えていきます。
編集:宮内 俊樹
執筆:福田 安奈
写真:into Saihoji編集部
※許可を得て撮影しています。