2025.5.8
西芳寺の地霊(後編)
造園学者 尼﨑博正
土地に刻まれた歴史を呼び起こす
ゲニウス・ロキとは、ラテン語で地霊、場所の精霊を意味します。西芳寺の歴史を振り返るとき、「時間の多層」は重要なキーワードであり、その時代時代の人の営みの折り重なりとは、まさに「ゲニウス・ロキ」と表現するのがふさわしい。
「時間の多層」をテーマに、造園の視点から西芳寺の庭園を紐解いていく尼﨑先生の講演会。前編では、中興開山の祖である夢窓国師によって造られた西芳寺庭園の革新性について見ていきました。後編では、当時の西芳寺が人々にとってどのような存在であったのか、そして時を経て現在行われている水路復元事業の意義について考えていきます。(前編はこちら)
尼﨑 博正
造園学者、作庭家、京都芸術大学名誉教授、日本庭園・歴史遺産研究センター名誉所長。1946年生まれ。京都大学農学部を卒業後、京都市内の造園業者に弟子入りし、さまざまな現場で経験を積んだのち独立。同時に長きにわたり、多くの学生に造園の歴史・文化や作庭について教えるとともに、専門家として全国で文化財庭園の保存修復を指導。1992年に日本造園学会賞を受賞、2014年には京都市文化功労者として表彰される。

文献から見えてくる往時の西芳寺
西芳寺について書かれた文献を調べてみると、これは天下の絶景で、人のなすことができない風景だ、と賞賛されています。また、花を愛でる記事が多くあります。たとえば、光厳上皇が花の下で船に乗った、という記述。船に乗りながら桜の花を愛でるのは、王朝貴族の遊びのベースです。それから、足利尊氏と息子の義詮、弟の直義も西芳寺を訪れていますし、足利義満や義政も来ています。

皆、桜を目当てに来ていたようですが、義満の頃からは紅葉も見に来ていたようです。義満は真面目といいますか、坐禅をしに来られていました。方丈の「富士の間」で道話を聞いたり和漢連句をしたりした後に上段の庭の指東庵へ行き、坐禅をしていたようです。それが尋常ではないんですね。坐禅して戻ってきて、また夜中まで坐禅するという具合でした。夢窓国師に帰依して、滞在中のほとんどを指東庵での坐禅に明け暮れていたことがわかります。
一方の足利義政はお庭好きだったようで、指東庵には行っても、坐禅をしたという記事がないんですね。「富士の間」で手水を使い、仏殿で焼香してから指東庵に行きますが、坐禅については書かれていません。でも彼のすごいところは、さらに縮遠亭に登っているところです。まだ30代と若いのに、もう大変にしんどかった、はあはあと言って登った、と書いてあります。そしてそこで眺望を楽しんだあとは、降りてきて船遊びで花を楽しみました。
当時、貴人や武人が足繫く通っていましたが、それぞれお庭で何を楽しんだか、ということですよね。
天下の名園として影響を与え続けた西芳寺庭園
義政は西芳寺のお庭が大好きだったので、東山の銀閣寺を作るときには、西芳寺を参考にしただけでなく、ちなんだ名前も色々とつけています。たとえば、西芳寺の西来堂に対して、銀閣寺の東求堂。縮遠亭に対して、超然亭と名付けています。本当に同じような空間構成で作っていて、西芳寺にものすごく心酔していたことがわかります。

応仁の乱(1467-1477)が始まると、西芳寺は西軍の乱入によって焼亡し、池の水がなくなってしまうほどに荒廃してしまいました。そこで、義政は西芳寺に心酔していましたから、一生懸命復元したんですね。
1480年の記録を見ますと、「義政来訪に際し、除草して池に水を張る」とあります。さらに10年ほど後には、「淺水等誠に舊の如し」という記録があります。「舊」は古いという意味ですから、義政が昔の姿に復元しようとしていたことがわかります。その結果、指東庵のみが辛うじて再興されました。これが西芳寺の復興期の一つと言えます。
その後、天文3年(1534)に兵火で再び焼失しますが、これもすぐに再興されます。この時の再興された姿が「京名所図屏風」に描かれています。滝が流れているのが見えますよね。復興後なので、当初の流れ方かどうかははっきりしません。

再興された後、さらに織田信長が泉水再興の朱印を下した、という記述も残っています。つまり、兵火で焼失したけれど再興されて先ほどの絵図のような姿になり、その後も、庭園をもとの姿に戻す努力がなされてきたわけなんですね。皆が西芳寺に注目していたということです。
それから参考ですが、醍醐寺の三宝院。豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら縄張り(基本設計)をした庭園ですが、完成までに20数年かかっています。その間、醍醐寺座主の義演准后は他所のお庭を見て回っているのですが、それが、西芳寺・天龍寺・臨川寺と、夢窓国師が関わった庭でした。西芳寺庭園が天下の名園だという認識は、作庭された1339年からずっと受け継がれていて、他の庭園にも影響を与えてきたといえます。
ありとあらゆる調査を重ねて水路を復元する
現在、多くの人の努力の積み重ねで、影向石周辺の水路復元プロジェクトを行っています。園路と水路の復活と鳥居の復元です。
西芳寺は世界遺産ですが、文化財としては国の史跡および特別名勝に指定されています。しかも特別名勝ですから、名勝の中でも特に重要だというわけです。建造物でいう国宝に当たるんですね。庭の国宝だということをしっかりと認識しておく必要があると思います。
文化財に人の手を加える場合は、必ず調査をします。文献、絵図、写真等、今日に至るまでの、ありとあらゆる資料を調査します。根拠なしに勝手には触らないということは、最も基本的なことです。
昭和30年に森蘊先生が実測した図面があるのですが、そこには既に導水の跡という記載がありましたので、水路の形跡が見つかっていたことがわかります。今回これをもとに発掘をして、室町時代と近世の、二つの時代の水路跡があることが判明しました。
また、大正11年実測図からは、今とは異なる場所に園路があることもわかりました。この園路を今、復元しようとしています。(※2025年3月に復元完了)


発掘すると、土地に刻まれた歴史がわかる
文献調査に加えてもう一つ重要なのが、発掘調査です。
発掘すると、土地に刻まれた歴史というのがわかるんです。元々はどんな地形であったか。そこにどういう造成の工事をして、どのように池を掘って、どんな石の据え方をしたのか。そういう細かいことまでわかります。
今回の発掘調査により、一番下の方に当初の水路跡の片鱗が見えました。だいぶ下です。江戸時代の流れも見つかりましたが、こちらは少し浅くなっています。近代のものはさらに浅くなってはいるんですけれども、室町期の水路遺構を保護するということもあって、復元は江戸期の水路にしようという話になりました。水の落ち方は、「京名所図屏風」の姿で復元しようとしています。
鳥居や園路についても、もちろん発掘調査をします。鳥居は近代の写真に載っていまして、その写真を参考にしながら、現地でも大きさを徹底して調査しました。


そうして発掘調査をした上で、遺構を破壊しないように修理をしていきます。 特別名勝は国の宝物ですからね、文化庁の補助金も出ます。お寺の負担も大きいですけれども。いずれにしろ、誰もが納得できるような修理をしようという、そういう努力をしているということを頭に入れておいていただきたいと思います。
山水には得失なし。得失は人の心にあり。

ありとあらゆる調査をしますが、そうした過去の風景をそのまま再現するというよりは、かつてつくられた風景をベースとして、次の世代へどう受け継いでいくのか、その役割がどこにあるんだろうということを考える必要があると思います。
冒頭(前編)で紹介した『夢中問答集』を今一度思い出してみますと、山河大地、草木瓦石、ありとあらゆるもの全て皆自己の本分であると信ずる人が求道者の本当の姿であり、求道者が山水を愛する姿を模範としましょうと、夢窓国師は言っています。
かと言って、他の在り方を否定してはいません。色々な山水の姿があって、どのように愛するのかも色々な人がいて、それは良いとも悪いとも言えない。言えないけれども、求道の心があってこそ、山水と一体となった共感を得ることができるんだ、という風に解釈されます。
これはやはり、このお庭と接する時に最も重要なことだと思います。
私たちはこれから、どのようにこの庭を守り、一緒に暮らしていけるのか。それを求道の心に従って考えていかなければならない、ということです。
水路復元事業に関する記事「西芳寺を継ぐ手しごと<水路復元>」はこちら ≫
編集:宮内 俊樹
執筆:細谷 夏菜
写真:into Saihoji編集部
※許可を得て撮影しています。