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2025.12.15

生活の禅語 「不識」

今回は、「無功徳むくどく」の回でお伝えしたりょうの初代皇帝・武帝ぶていと達磨大師のやり取りの続きをご紹介いたします。「不識ふしき」も禅の書物である『碧巌録へきがんろく』第1則の言葉です。

簡単に、「無功徳」でのやり取りをおさらいしましょう。

梁の武帝が「私はこれまで寺を造り、僧侶を供養してきました。私にはどのような功徳があるでしょうか」と問うたところ、達磨大師は「無功徳」と答えました。つまり、「何のご利益もありません」という意味です。どれほど良い行いをしたとしても、そこに見返りを期待する心があってはいけない、と諭したのです。

やり取りは続きます。

武帝、達磨大師に問う、「如何いかなるか聖諦しょうたい第一義」。磨曰く、「廓然無聖かくねんむしょう」。

「聖諦」とは、仏法の大事な教えや真理のことです。「聖諦第一義」というのは、その中で一番大切なもの。つまり武帝は、仏法で一番尊い教えとは何なのか?と、達磨大師に問うています。

これに対して、達磨大師の答えは「廓然無聖」。「廓然」はがらんとして何もない、とてつもなく広い様子を表し、「無聖」というのは尊いものが何もないという意味です。武帝としては、尊い教えである仏法を信じていろいろな良い行いをしてきたつもりであったのに、仏法における大事なものは「何もない」と言われてしまったのです。武帝は動揺しながらも、続けて問いかけます。

帝曰く、「朕に対する者は誰ぞ」。磨曰く、「らず」。

「では、私の前にいるあなたは誰なのか」と問いかけましたが、達磨大師は一言「知らない(=不識)」と。こうなると武帝は返す言葉が無くなってしまいました。

これこそまさに禅問答だ、見事だ、と言われることもあるのですが、それぞれの言葉の意味を詳しく紐解いていきます。

まず初めに、このやり取りを理解するために、大元になる考えがあります。それは、仏教は対機説法であるということです。対機説法とは、「教えを聞く人や相手の能力・素質にふさわしく法を説くこと」です。一昔前に「良い質問ですね」という言葉が流行りました。良い質問をすると、良い答えが出たりお互いの学びがあったりします。一方、悪い質問だとなかなか答えを返すのが難しいものです。

これまでの「生活の禅語」を読んでくださっている皆さんならお分かりかもしれませんが、武帝の問いは自我に囚われており、仏道を修める身としては十分なものではありませんでした。
それゆえに、達磨大師は物事に執着がある武帝に対して、最後の喝を入れる意味も込めて「不識」と言ったのです。

以上の通り、「不識」は本来、喝を入れるための言葉です。しかし今回は、少し視点を変えて、現代における「不識」、つまり「分からない」について考えてみたいと思います。

今の時代は、検索すれば何でもすぐに答えが出ます。今後は生成AIもさらに普及し、指示や質問を入れるだけで、より簡単に、もっともらしい答えが出るようになるでしょう。
また、現代人は幼少期から、分かることが偉いことで、分からないことはダメなことだと教育されることが多いように思います。

ですが、よく考えてみてください。本当に世の中は分かることばかりなのでしょうか?

例えば、

私はなぜ生を受けたのか?
私は何歳まで生きられるのか?
なぜこのタイミングでこの出会いがあったのか?
死とは何なのか?
死んだあとはどうなるのか?

などなど考えてみると、私たちの人生は、分からないことも意外と多いのだと気づきます。

「分からない」を認めてくれるのが、仏教の優しさでもあります。それを頭の片隅に置いておくだけでも、寛容になれたり、視点を変えたりすることができるはずです。

合掌
洪隠山西芳寺 藤田隆浩

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