2025.6.15
生活の禅語 「看脚下」
看脚下は、読み下して字のごとく、「脚下を看よ」という意味です。
同じような意味の禅語に「脚下照顧」があり、禅宗のお寺の玄関によく掲げられています。これは、玄関では足元を見よ、つまり「足元に気をつけ、履物を脱いだら揃えなさい」ということです。
靴は脱いだら揃えることがもちろん好ましいですが、ふとお寺の玄関を見ると、靴の脱ぎ方が様々で雑然としていることも。昔であれば、それを直すのも寺務員の務めでしたが、最近は自分の靴の場所が変わるのを嫌がる方や、誰かに勝手に触られたくないと考える方も増えてきましたので、そのままにせざるを得ない状況です。
この「看脚下」や「脚下照顧」は、「今日の自分の行いや、今の有り様は間違っていないのかを確認しなさい」という意味もあり、自分の行動を省みるための言葉でもあります。
靴を脱ぐ際にはこの禅語を思い起こし、履物を揃えて、足元を確認するところから始めてみる。
そして、物理的に靴を揃えるだけでなく、自分を振り返る時間としていただけると、日常に少し余裕が生まれてくるかもしれません。靴を脱ぐ瞬間は日に一度はあるかと思いますので、身近にできる修行としてお勧めです。
前回の「挨拶」の時にも申しましたが、禅の修行は決して特別なことではなく、日常の生活に根差した当たり前にあることの連続なのだと感じていただきたいです。どんなことでも自分なりに考え、深めていくと、大切なことに気付くものです。
最後に、白隠禅師坐禅和讃というお経の一節をご紹介します。
衆生本来仏なり 水と氷の如にて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
意訳すると、次のような意味になります。
「生きとし生けるものは本来仏である。水と氷の関係のようで、大本が同じであるように、仏と凡夫の根本的な違いはない。自分自身が仏であるにもかかわらず、遠くに仏を求めてしまうことはなんと儚いことか。」
あれがしたい、これがほしい、こういう状況になったら出来ていたのに…
色々な欲があるかもしれませんが、
まさに「看脚下」。
本当に大切なものこそ、足元にあるはずです。
それを探す時間を取ること、そしてそれに気付くことが大切です。
現代は、忙しなく、様々な情報や刺激が溢れているので、立ち止まる時間が取りにくくなっています。だからこそ、玄関では、まず靴を揃えることを心掛けると同時に、一瞬でも良いので自分を振り返る時間を取っていただければ有難く存じます。
合掌
洪隠山西芳寺 藤田隆浩
