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2023.9.10

生活の禅語 「体露金風」

体露金風たいろきんぷう」という言葉は、前回ご紹介した「日々是好日」の出典と同じ禅の書物『碧巌録へきがんろく』にある禅語で、次のようなやり取りが元になっています。

僧、雲門 *に問う、「樹凋しぼみ葉落つる時如何いかん」。雲門云く「体露金風」。
*雲門禅師:約1000年前(唐末から五代)に中国で活躍したお坊さん

晩秋の頃、木枯らしが吹くようになると樹々の葉が落ちていきます。その時は一体どう思いますか、と。意訳しますと、老いが深まっていく(死が近付いていく)今日この頃をどう思いますか、と一人の僧が質問します。雲門禅師は、すかさず「体露金風」と答えます。金風は「秋風」のことで、清々しい風です。自分自身が気持ちの良い秋風に溶け込んでいるという(悟りの)境地を伝えます。

秋にぴったりの禅語ということで、今回は「体露金風」を選びました。意訳したように、師匠の雲門禅師に向かって、老いが深まっていく(死が近付いていく)今日この頃をどう思いますか、と一人の僧が質問します。師匠に対して、加齢による衰えへの皮肉的、かつ挑戦的な問いです。ここまで聞けるのは、なかなかの僧です。

お釈迦さまは人が生きていくうえで、避けて通れない生老病死を「四苦」として説かれました。生まれる、老いる、病になる、そして死ぬという四苦は、悩んでも変わるものではないのだから悩むな、と言い切ります。

この苦の捉え方は、私自身が仏道の道に進もうとなったきっかけでもあります。幼少期に祖父を亡くした際、火葬場で「おじいちゃんきれいにしてくるからね」と祖母に言われ、数時間後に骨となった姿を見た時に、事態が呑み込めませんでした。そして「死」がいずれ自分にも訪れると思うと、不安で夜もずっと考えるようになりました。その後も死について本を読んだり、誰かに聞いたりしても“それらしい答え”しかなく、挙句の果てにそんな私に対して、変な顔をする大人を見て、もやもやしたことを思い出します。それでも日常生活を1年もしていると、その大切な問いは、記憶の彼方にいってしまっていました。

それから20年以上経ち、社会人をしていた頃、たまたま読んだ仏教書で「「死」は誰しもに等しくあり、悩んでも変わるものではないのだから悩むな。そして今この瞬間を懸命に生きよ」と言い切った文章に触れた時の衝撃は忘れられません。私にとって、「「死」もまた「体露金風(清々しい秋風)」じゃよ」と雲門禅師に言われた瞬間です。

老いや死、広げると四苦や人生のどん底といった一見ネガティブにみえるものに対して、「体露金風」だと言い放った雲門禅師。
生の全肯定を示した、そして今を一切受け入れた上での感興の言葉のように感じられます。まさにここに禅の妙味があります。

秋といえば、紅葉です。
モミジは生ききるために紅葉するそうで、ここにも「体露金風」の世界がありますので、ご紹介いたします。
秋になり、日に日に日差しが弱くなり、葉っぱを維持するのが難しいと判断すると、エネルギーを効率よく蓄えるため、葉っぱを落とす準備をします。このとき、できるだけ葉っぱから養分を吸い取って落とすために、葉緑素も分解して、養分として取り込もうとします。そうすると、その葉緑素の中にある色素の1つが光を吸収し、赤や黄色に色が変わるとのことです。冬支度をすることで色が変わり、葉が散った後、蓄えた養分で冬を耐え、その養分で次の春に新しい葉っぱを出していきます。散るその瞬間まで、生ききる紅葉の姿もまた「体露金風」です。

生きていると、どうしようもないことが起きます。それはネガティブなことだけでなく、ポジティブなことに対しても。そういう時に、私情を入れずに、その瞬間を生ききる。

西芳寺を作庭した夢窓国師は自然を修行の手立てとしました。今年の紅葉狩りでは、是非この禅語を思い返していただき、モミジが紅葉してきれいだなぁと終わるのではなく、今を真剣に生きることが出来ているのか、自分自身に問うてみると、いつもとは違った世界が広がるかもしれません。

合掌
洪隠山西芳寺 藤田隆浩

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