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2024.9.10

心のレッスン 「生と死」

心のレッスン

形を持たないものの輪郭をあらわにし、その真髄に迫る「心のレッスン」シリーズ。第3回のテーマは「生と死」です。テーマを軸に、西芳寺執事長の藤田隆浩氏にお話を伺い、体験や思考、日々感じることなどを様々な形でお伝えしていきます。

私たちは何のためにこの世に生まれてきたのでしょうか。どのような人生を歩んでも、その先には必ず「死」が待っています。あらゆる事象が科学的に解明されている現代においても、死後の世界は依然としてわからないまま。そんな未知の死に対する不安や恐怖は、誰もが抱く感情かもしれません。仏教を紐解くことで、死への恐怖を無くし、生きる力を得るヒントを探ります。

死があるから、生が輝く

死とは怖いもの、忌むべきもの――そのように捉える人が多いかもしれません。しかし仏教では「生死一如しょうじいちにょ」といって、生と死は切り離すことができない一つのものであると考えるそうです。生と死が一体であるとはどういうことなのか、藤田さんにお話を伺いました。

「仏教では二元論で物事を考えません。『美味しい/美味しくない』『綺麗/汚い』というように、対立させないんです。生と死も同じで、生が始まった以上、どこかで終わるのは当然のこと。だから死から逃げてはいけないんです。

逃げないと言うと、どんな苦行でも逃げずに耐えなさい、といった意味に捉えられがちですが、そうではなくて、あるべきことにきちんと向き合っていくから、それを受け入れられるんです。いつ死ぬかはわからないから、ちゃんと考えておかないといけないよね、ということを仏教は説いているわけです」

そもそも仏教は、お釈迦様が死を考えたことがきっかけなのだとか。

「お釈迦様が出家した時のエピソードに『四門出遊しもんしゅつゆう』というものがあります。お釈迦様はもともと釈迦族の王子で、すごく恵まれたところにお生まれになられました。ある日、彼が街に出ると、そこには老人や病人がいて、お葬式も行われていました。その様子を見て、彼は初めて生老病死を意識したんです。それまで王城の中では老いや死に触れずに育ってきたものですから、老病死に悩む人々の姿を目の当たりにして、彼自身も悩み、とうとう出家しました。まさに『生と死』を考えるというところが仏教の始まりなんですよね」

仏教が誕生してから2500年以上。時を経て大きく社会が変わった今でも、人は死を恐れ、老いを遠ざけようとしています。とはいえ、医療の発達などにより、現代において死を意識する機会は減ってきているようにも思います。死は向き合わなければいけないものなのかと尋ねると、藤田さんは、手元の紙に十字の線を書き始めました。

「タスクを整理するときに、緊急度と重要度の指標を使う、アイゼンハワーマトリクスという手法がありますよね。物事を『重要かつ緊急』『重要だが緊急ではない』『重要ではないが緊急』『重要でも緊急でもない』の4つに分ける考え方です。死は、4つのうちどれに当てはまると思いますか。

多くの人にとって、死は『重要だが緊急ではない』ものだと思います。最近はタイパという言葉がよく使われるように、時間対効果を気にしますよね。みんな緊急のところばかりを見ているんです。そうすると、緊急ではない死については考えない。でも、たとえば『あなたは余命半年です』と言われると、死が一気に『重要かつ緊急』の案件になって、慌てふためくんですよ」

藤田さんはこれまでの人生で、死が『重要かつ緊急』であると感じることが何度かあったと言います。

「数年前に飛行機に乗った時、エンジンが片方壊れたことがありました。これはもう生きて帰れないと思って、遺書をどうやって書こうか考えましたね。ペルーの川で流されたときも九死に一生を得ましたし、トルコのマーケットでナイフを出されたこともありました。

私は幸運にも今こうして生かせていただいていますが、死に直面するたびに、今をもっと真剣に生きようと思えるようになりました。死から逃げずに向き合うことができれば、今を輝かせることができます。

こんな話をすると、実際に体験しないと考えられないのでは、と思われる方もいるかもしれません。でも、新型コロナウィルスが流行しはじめた頃のことを思い出してみてください。誰もが死を間近に感じ、日常生活の行いを振り返っていたはずです。たとえ今が健康で、死が『緊急でない』ものだとしても、ひと月のうち一日、その一日のうちの少しでもいいので、向き合う時間を取ることが大切です」

「変数」と「定数」を見極める

しかし、どれだけ死について考えてみても、自分がいつ死ぬのかも、死後どうなるのかも、答えを見つけることはできません。

「学校でも社会に出ても、解を求められます。そんな中で育っているから、死についても答えを出さなきゃと思ってしまうのですが、答えは出ないんですよ。でも仏教はそれを許容してくれます。お釈迦様は極めて論理的な人で、『わからんもんはわからん』って言っちゃう。ちゃんと考えて、向き合って、それでもわからないものはわからないでいいんです。この寛容的な優しさが仏教の一番いいところだと思っています。

ただ、答えは出なくてもいいけれど、考える上で大事なことはあります。実業家の森岡毅もりおかつよしさんの言葉をお借りすると、『変数と定数』を見極めることです。『定数』とは変更できない数値、つまり自分の力ではどうしようもないこと。一方で『変数』は自分の行動で変えられます。では生や死はどちらに当てはまるかというと、定数ですよね」

死は変わらないから考えても仕方がない、というのは諦めに近い感覚なのでしょうか。

「諦めのようなネガティブさは無いと思っていて。いつまで生きられるかわからないのだから、今を輝かした方がいいんじゃないですか、ということです」

どんなことがあっても「好日」と思う

死が変えられないこととわかってはいても、近しい人との死別は耐え難く、立ち直るのが難しい場合もあります。そういった時にはどのように向き合えばよいのでしょうか。

「『日々是好日にちにちこれこうじつ』という禅語があります。災難に遭ったとしても、その日を好日と思う、という意味です(「生活の禅語」参照)。その人の死は変えられないから、割り切って生きていくしかありません。もっと言うと、それすら意味があったんだと思って前を向いて生きていきなさい、というのが禅の教えなんです」

深い悲しみの中にいる人にとっては酷な考え方かもしれません。先ほどの仏教の優しさとは対照的な厳しさが感じられます。

「おそろしいですよね。天寿を全うした方ならまだしも、若くして亡くなる可能性もある。それでも好日と思えって言っちゃうわけです。例えば、災害で子どもを亡くしたお父さんが、その経験を講演会で話すことで皆にエールを送っている、という話を聞いたことがあります。

向き合うというのは、そこにずっといろと言っているわけではありません。たとえ子どもが亡くなっても、自分はまだ生きている。その時に、自分も何もやらずに終わってしまうのか、まだ何かやれることがあるかと考えるのか。本当に変えられるものと変えられないものは何なのか、というのを問われているわけです」

これは、自分自身の死と向き合うときも同じだと藤田さんは言います。「私の師匠の話で印象に残っているものがあって」と、あるエピソードを聞かせてくれました。

「とある信者の旦那さんが、慌てた様子で師匠を訪ねてきて、妻が余命数ヶ月と宣告されたから、書を一つ書いてほしいと頼まれたんです。師匠は<好日>と書いて、『これまでの人生、思い通りになったこと、ならないことがあると思うけれど、この<好日>の書と共に振り返ってくれ』と言って渡されました。旦那さんから書を受け取った奥さんは、ぎょっとするわけですよ。自分は今、人生で一番悪い瞬間にいると思っているのに、なぜ<好日>なのだと。

でも彼女は、気づいたんです。好い日もあったけど、そうじゃなかった日も多かったということに。思い通りにならないこともあるんだということがわかってからは、考え方がよくなっていったのか、生前整理もきちんとなさって、思ったよりも長く生きられたんだそうです」

死ぬことは変えられなくても、残りの日々を変えることはできる。心と身体は連動すると言いますが、余命を好日と考えられるようになったことで、心の働きが良くなり、身体にも良い影響が生まれたのかもしれません。

「彼女の場合、自分の死が目前に迫っていたのもあって、ストンと腑に落ちたのでしょう。立ち止まって一度整理する時間を取るのが大事というのは、全ての人に言えることだと思います」

人生は思い通りにならない

死を意識してみると、生に対する執着が強いことに気づきます。「人生で一度は行きたい場所」という謳い文句があるように、世の中には魅力的なものが溢れていて、まだまだやり尽くせていないと感じてしまいます。すると、藤田さんは「やり尽くすってあるんですかね」と疑問を呈します。

「多分、皆さん人生が思い通りになると思っているんですよ。自分が工夫すればもっとできるようになると考えている。でも、そうじゃない。思い通りにならないんですよね、物事というのは。

世の中が便利になって、ある程度思い通りになるように見せかけられているわけです。 そうすると、思い通りにならないことにストレスを感じてしまう。でも、ベースが思い通りにならないんだと気づくことができれば、思い通りになったときに感謝するようになります。<知足ちそく>とも言えますね。足るを知ることが大切です。この、人生は思い通りにならないものなんだというのがストンと腹に落ちたら、死への恐怖は無くなりますし、いつ死んでもいいと思えるようになりますよ」

豊かな人生を送るために

死を受け入れ、生をいかに輝かせるかを考えようとすることは、自分がどのような人生を歩んでいきたいのかを再確認する場でもあると言えそうです。

「豊かな人生を送るために何が必要なんだっていうところを考えないといけないですよね。貧しい生活でも豊かな人生は歩める、そこに気づけるかどうか。もちろん、皆さんは修行僧ではありませんから、実際に貧しい生活をしろとまでは言わないですけどね。

あとは、多くの人は無駄を嫌がるけれど、そこが大事だと思っています。例えば、子どもって究極に無駄なことをいっぱいするじゃないですか。 でもあの時間が脳を成長させていると思っていて。子どもはコスパ・タイパなんて当然気にしません。そう考えると、今の人たちが時間の無駄だと思って捨ててしまっているところが、本当の豊かさに繋がってくると思いませんか」

慌ただしい日常の中ではつい効率の良さや便利さを求めてしまいます。そこから距離を置くためには、どうすればよいのでしょうか。

「例えば『この1時間はスマホを触らない』でもいいし、SNS断捨離をしてみてもいい。ちょっとしたことでいいので、始めてみてください。『ながら』をやめるというのもおすすめです。食事であれば、スマホを見ながら食べるのではなくて、手を合わせるところから始めて、お米の甘みを味わう。ふだん外食が多い人であれば、ご飯を炊いて、お味噌汁を作ってみるとか。毎日じゃなくていいから、たまには、そうした向き合う時間をとってみてほしいですね」

最後に藤田さんは、自分の軸を今一度点検してほしいと話します。

「今日が人生最後の日なら、これは譲れへんよっていうのがありますよね。ではその軸が本当に自分にとって大切なものなのかを考えてみてください。そうすれば、次のヒントが自ずと出てきます。

そうした自分と向き合う場として、お寺を活用してもらいたいなと思っています。西芳寺なら、枯山水の前で自分に問いを立ててみてください。一気にわかるのは無理ですよ。でも考えていくうちに、いつかストンって落ちる日がくると思います」

※枯山水は、折々参拝「坐禅と日本最古の枯山水」において、Saihokai会員の皆様にのみご案内しています。

取材・編集:宮内 俊樹
執筆:細谷 夏菜
写真:岡森 大輔
※許可を得て撮影しています。

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